【ブログVol.61】合理的な疑いと妥当な範囲

「合理的な疑い」という言葉は司法制度では不可欠で重要な概念です。人を裁くということは、その本人と社会全体に劇的な結果を伴う、不確実な状況下で強いられる典型的な意思決定プロセスです。その本質の狙いは、罪を犯した人を逃すのを抑えると同時に、無実の人を罰するようなことを極力無くすことです。

私の観点では、これは妥協が対立に対する最善の解決策になるケースの一例です! 私は、すべての人間を公平に扱うと同時に犯罪を減らさないといけないという本質的な対立の解決策として、それ以外に何も思い浮かびません。

覆そうとしてできないのは「決して知っていると言わない」という基本の仮定です。それはゴールドラット博士の造語ですが(本当に彼が最初???)、判決を下さないといけない裁判官と陪審員には間違いなく当てはまります。

組織の経営では、通常、そんな劇的なことはそう起きません。無実の人を投獄するとか、まして殺人犯を野放しにするに匹敵した害を及ぼしかねない意思決定は、ごく稀にしかないのです。

もちろん、最高経営責任者(CEO)は皆、相当大きな害を及ぼすかもしれないが大きな利益を生む可能性もあるような、意思決定を毎日しなければなりません。司法制度と同様解決策は妥協だと言う人もいますが、私が思うに、組織の経営ではリスクを取る、リスクを取らないの対立で解けると思います。なぜなら、すべての決定の蓄積が大きなプラスである限り、組織は一定の損失を被る決定を許容可能だからです。裁判はそうではありません。

妥当な範囲」という概念の方は、私が以前の記事ですでに述べました。それは、「妥当な楽観的予測」と「妥当な悲観的測」の結果を考慮に入れて、意思決定それぞれに損失と利益を明らかにして、実際の結果がほとんどその2つの間に収まると知った上で、最終的な決定を下すという意味です。

ここで司法制度から得られた特に重要な洞察を一つ挙げておきます:

ある特定の潜在的な結果の損害は、どんな犠牲を払っても避けなければならないくらい、極めて大きい!

「疑わしきは罰せず」という考え方は、被告がどんな極悪非道なことをしたかもしれないとしても、決して無実の人を罰するという損害を出すことは許されないということです。

比較的稀にしか起きなくても、大きな損害を引き起こす可能性のある決定は認めるべきでないというのが一般的な見解です。つまり、被告が無罪である確率が仮に5%なら、彼らが犯罪を犯した確率は95%ですが、彼らに無罪判決を言い渡すことが正しい判断だというのです。人を不当に扱うと、社会にはその10倍をはるかに超える害が及ぶという認識です。1%でもその恐れがあれば、通常、それが合理的だと考えられているのです。

この洞察を経営環境に翻訳すると次のようになります:

マネージャーは、自分たちの意思決定が引き起こす潜在的な損害のレッドラインを引いて、その線を越える可能性のある意思決定は、どんな利益があろうと、すべて拒否しなければならない。

人は、損することと儲かることを見分けて、損することを避けるものです。ところが、少数の人々にとっては、それは誤りで間違った判断をさせます。 しかし、私は、1千万ドル損するかもしれないなら、1億ドル稼ぐのを諦めます。なぜなら、私の生活にとって、1億ドル稼ぐ利益よりも、1千万ドル損する損失の方がはるかに大きいからです。でも、億万長者にとっては、それは間違った判断です。なぜなら、その億万長者にとって、1千万ドル損しても、ダメージは私よりはるかに小さいからです。

そういうわけで、罪を犯しても刑務所に入らない人が如何に多いかというバランスを考えない司法制度とは異なり、経営においては、下した意思決定による潜在的な損害を評価する上で、組織の財務状況が重要なパラメータになるのです

合理的な疑いの法的概念に由来するもうひとつ興味深い洞察があります:

合理的な疑いがあるかどうかの判断は、直感に基づいている!

つまり、証拠に合理的な疑いの余地があるかどうか推定する厳密な方法は未だ何もないのです。司法制度は、裁判のプロセスには非常に厳しいが、「合理的な」という言葉で、有罪か無罪か判決を下す重い負担を、直感で判断する人間にすべて委ねるのです。

最適化がカギになる学会ほどではないにしても、経営では最適化の数学を崇拝する傾向があります。使える情報の不足を補うのに最終的に人間の直感を求める司法制度に学ぶべきだと私は思います。

しかし、私の見たところ、司法も経営も疑いやリスクに対する基本的な直感を裏付ける能力を欠いています。我々、人間は、不確実性、リスクあるいは疑いを直感的に評価するとき、相当な偏見を持って見ています。Kahneman教授は、彼の著書Thinking Fast and Slowで、それら偏見のいくつかを指摘しています。確率論の主な概念と原理の深い理解は、直感を使いつつも、その原理を用いて直感を上手に制御して、この対立を分析(というより本能的に判断)する助けになるでしょう。

私は最近、証拠はひとつ一つ個別に判断すべきで、もし特定の証拠に合理的な疑いがあればそれは無視すべきだと主張する、法学教授でもあるイスラエル人弁護士の記事を読みました。つまり、その教授によると、合理的な疑いがあるかどうか判断する上で、証拠全体の方がより重みがあることは全くないと言うのです。私は、数学の基本的な論理と衝突する、そんな主張には全く同意できません。私は、数学と統計モデルが求める完璧な情報を我々が持ち得ない状況で、論理と現実を結び付ける架け橋を必死で探っているのです。

ということで、別々の場所の需要や別々の証拠のような、異なる変数の間の「依存性」と「独立性」の概念は数学の論理で明らかにすることになります。ところが、私が現実を見ているところでは、それら変数の間には「部分的な依存」がある場合があまりに多すぎます。それは、集積によるリスクの緩和効果は存在するにしても、我々が度々思うほどには効果は大きくないということです。私たちがもっと深く基本的な論理を理解すれば、私たちの直感の効果を高めることができるし、それには非常に大きな価値があります。


著者:エリ・シュラーゲンハイム
飽くなき挑戦心こそが私の人生をより興味深いものにしてくれます。私は組織が不確実性を無視しているのを見ると心配でたまりませんし、またそのようなリーダーに盲目的に従っている人々を理解することができません。

この記事の原文: Between Reasonable Doubt and Reasonable Range

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