私は、いくつかの刺激的なコメントのお陰で、前回の記事で取り上げたTOCの境界について「発話思考法」を続ける気になれたのが、非常にうれしい。
まさしくHumberto Baptista氏のご指摘のとおり、私が紹介した2つの公理は、より高い目標を達成できるよう経営者を導くのにTOCが有効である条件は示したが、それはTOCとは何なのかを定義するものではありません。境界は適用可能な領域を決めるだけで、本質は何も示しません。それでも、条件が当てはまらないと何故その方法論が適用できないのか理解するには、境界が重要なことに変わりありません。また、Philip Marris氏は、思考プロセスを使って達成したいゴールに合意を得るとか、顧客への約束が守れないカオス状態でちゃんとやるべきステップを踏むとか、そういう条件が守れていない状態で、TOCを適用してよいものか疑念を持っています。TOCの考え方の1つや2つは有効かも知れないが、公理のひとつでも当てはまらないと、TOCそれ自体はそれほど有効ではないと、私も思います。
ここでもうひとつ別の公理が思い浮かんできました:
- 組織のゴールに制限はない。
因みに、特定の目的で寄付金を集めて、その後組織を解体するといった、特別な意図がある場合は、確かなWin-Winの構築などTOCの指針の多くは当てはまらないでしょう。
TOCの柱に対してHumberto氏から非常に興味深い意見が出ていますが、私の方にも1つ大きな疑問があります:
TOCはイデオロギーなのか?
言い方を変えれば、TOCが私たちを導くのは、単により高いゴールなのか、それともゴールより崇高な何かがあるのか?
ゴールドラット博士は、しばしばゴールの主なエンティティに付随する必要条件について発言しています。組織のオーナーは、ある特定の価値観に基づく必要条件を課すことで、そのゴールに自分自身のイデオロギーを入れ込むことができます。たとえば、組織の全階層で男女を同等に扱うことが必要条件になる可能性もあります。それは必要条件として、より多くお金を儲けること、あるいは組織のどんなゴールよりも強力です。
とは言え、TOC自体はイデオロギーではないと私は思います。それは、ほとんどの場合ゴールの達成に必要な確かな知見の上に構築されているからです。私は、TOCの柱はそういう重要な知見ではあっても、公理だとは思いません。公理には満たすべき2つの必要条件があります:
- 一つでも公理と矛盾する主張は、その定義からしてどれも無効である。
- 一つの公理は他の公理から論理的に演繹することはできない。
たとえば、「どんな対立も解消できる」という柱を例に取って考えましょう。私は現実には対立がないと心底信じられるか? 正直に言うと、私はその仮定を受け入れるのに困難を感じる。しかし、どんな対立でも解消しようと最善を尽くすことが必須だと私は思います。なぜなら、そういう解決法は、互いに共通したゴールを遥かに超えたものを達成できる可能性がどんな妥協よりも高いからです。私は、より多く達成するのに必要な新しい能力と余剰キャパシティを獲得する一般的な方向性として、対立とは真逆の協調の重要性をその柱から演繹的に導き出してみたい。TOCの守備範囲を広げるには、TOCにはもっと多くの協調や連携が必要だと、私は信じています。
私は現実が調和しているとは思いません。しかし、私たちは調和の達成を目指して一生懸命努力すべきだと心から信じています。
「ベースが高いほどより高く跳べる」という信念は、「決して知っているとは言わない(分かったつもりになるな)」に結び付いています。しかし、私はそれが現実世界で常に真かどうかは疑問に思います。その狙いは、さらに高いベースに跳び移れると既に気づいている稀な人々の肩を押すことです。私はそれには同意しますが、だからといって今の低いベースよりも高いところに必ず跳べるとはとても言えません。
我々TOCコミュニティは、本当に新たな飛躍を求めているのだろうか?
我々は一体どうしたいのだろう? 皆もっと多く知りたいのだろうか?
イデオロギーと現実主義の違いは、後者はときには1つ2つ主な原則を緩めることもあるが、前者はイデオロギーに含むすべてを絶対命令だとすることです。私の見たところでは、TOCは主として現実的で、その柱は命令というよりガイドラインあるいは指針と呼ぶべきものだということです。ですので、私なら、人の批判を含む考え方でも、因果関係を分析してその批判に深刻な副作用がないと分かれば、TOCと同様に扱うだろうと思います。つまり、限定的な批判は、結果に対する責任感を削いだり、人のモチベーションを低下させたりすることはないだろうということです。そうは言っても、私にとって大事な価値と衝突するような考え方は、好きになれないかもしれません。それでも、私はその考え方はTOCではないと言うのだけは控えます。
Humberto氏は5本目の柱を提案しています:「雑音に隠れるような最適化はするな」 これは、改善とその効果の予測に対する有効なTOCの一般的指針には違いありません。しかし、それは既存の2本の柱から演繹できると私は思います。「ものごとはそもそもシンプルである」というのは、自然の雑音より小さな効果しかない多数の変数を無視することです。そして、「決して知っているとは言わない」というのも、今は分からない因果関係を、パフォーマンスを左右する多数の変数の自然変動に含めて範囲を拡大したものだと、私は解釈しています。これは我々が知らないことのベースを非常に広く一般化するもので、私にすれば、どんなに抑えようとしても抑えられず、現実として受け入れざるを得ない不確実性です。
私がTOCの柱に欠けていると思うのは、結果を予測し、その予測が外れたら最初の分析に戻って間違いを特定するという、因果関係の分析が秘めたパワーの認識です。その認識は他の柱から導き出せるのかもしれないが、そうだとしても私はその分析法を理解してその知識を広めたいのです。
ということは、TOCは4本柱で定義されたイデオロギーってこと?
我々はTOCの柱に異議を唱えていいのでは? どれもTOCに絶対不可欠なものなのだろうか? そういう姿勢こそ、TOCを組織経営の方法論の主流にする後押しになるのでは?
著者:エリ・シュラーゲンハイム
飽くなき挑戦心こそが私の人生をより興味深いものにしてくれます。私は組織が不確実性を無視しているのを見ると心配でたまりませんし、またそのようなリーダーに盲目的に従っている人々を理解することができません。
この記事の原文: Is TOC an Ideology or a Pragmatic Approach? Discussing the Pillars of TOC