コロンビア出身のTOCの専門家で私の同僚Alfonso Navarro氏は、誰かTOCの方法論に異論を唱えて、大きな変化を提案したり、一度も議論されたことがない新しい考えを提起したりすると、「それはTOCではありません!」と切り返しているとこぼしていました。Alfonso氏の心配は、そうするのは、異論のある人々に、自分の考えややり方は自分の胸にしまっておいて、他人に教えるなと言うようなものだということです。
では、私たちはTOCが何なのか本当に分かっているのか?
TOCの本体は、私が「組織」と呼ぶ「人間のシステム」のマネージメントを目的としたものです。ですので、ここでは組織をマネージメントする方法論としてのTOCだけを取り上げます。どの科学分野とも同じで、TOCもいくつかの欠かせない公理の上に構築されています。私は、TOCが組織のマネージメントに有効であるための必須の公理は、次の2つだと理解しています:
- 組織に明確かつ合意されたひとつのゴールがある。
- 普通は、そのゴールを達成するために満たすべき一式の必要条件が付随しており、その条件が満たされたら、それ以上そこから得るものはなく、ただ必ず満たされないとならないということ。
- そういう必要条件としては、たとえば、従業員の満足、顧客の満足と信頼が高レベルに保たれていること。
- 組織のパフォーマンスがカオス状態ではない。
どこでもこの公理が当てはまるわけではないが、TOCの方法論が有効であるためには絶対に必要です。 私はこれまで、ゴールとその評価方法について有力な指導者の間で深刻な意見対立を抱えた、純粋な非営利組織をいくつも見てきました。大学の多くは、異なる研究分野の間や研究と教育の間で、絶えず内部対立を抱えています。芸能学院の多くも同じで、何がゴールで、それをどう評価するか内部で対立しています。
昨年のパフォーマンスが前年に比べ良かったのか、悪かったのか、ほぼ同じだったのか分からないとしたら、残念ながらTOCはお役に立てないのではないかと私は思います。
顧客への約束を履行するのに高い不確実性がある場合は、私はその組織をカオス状態と見なします。注文したものが届くのが今日なのか3ヶ月先なのか分からず、納品される保証さえないとすれば、その組織はカオス状態です。どう見ても、カオス状態の組織はすぐ死ぬ運命だろうし、TOCの介入で崩壊をくい止められるかどうか疑わしいと私は思います。組織のカオス状態は、通常、互いに影響し合う複数の制約が突然現れるのが原因で生じます。ほとんどの組織は、顧客へ納入で騒動が多すぎる最初の兆候を見つけたら、キャパシティを追加投入して、そのカオス状態を素早く自然に脱出します。さもないと死ぬだけです。
この公理が両方とも成立するならTOCが適用できます。その目的は、組織のパフォーマンスを継続的かつ大幅に改善することです。
なら、パフォーマンスの向上が狙いの考え方が「TOCではない」と言われるのはどういうときなのか?
TOCの論理的正当性の検証(CLR:Categories of Legitimate Reservations)をベースにした因果関係の論理的な分析を行った結果、その考え方には何も得がない、つまり、目に見えるパフォーマンスの改善が無い、あるいは全体に大きなダメージを与えそうな深刻な悪い副作用が存在する、そのどちらかだと断言されたら、TOCの人々から、その考え方は間違いで「TOCではない」と言われるかもしれません。でも私なら、TOCではないと言うより、その考えのどこに間違いがあるか指摘したい。
しかしながら、原因と結果を繋ぐ論理の正当性の検証は厳密科学ではありません。「思考プロセスと不確実性」という私の以前の記事を見てください。我々は皆、自分が真実と思うある特定の信念に基づいて考えますが、その信念を論理的に正当化するまたは無効にする方法はありません。もし「毎朝祈る」ならば「業績が伸びる」という主張にあなたならどう対処しますか? 私は宗教を論じるのは好きではないが、それこそまさに、パフォーマンスの向上を目的とした考え方の正当性を完全かつ確実に判定することに対する、論理的な分析の限界を示唆するものです。
TOCには、TOC流の思考とソリューションの指針になる常識と思われている、TOCそれ自身の信念と知見があります。ゴールドラット博士が示した4本柱は、その中で最も重要なものを集約したものです。
この4つの信念は、TOC流の思考とソリューションのベースになる基本理念に結び付いています。しかし、この4本柱は白黒をハッキリさせるギリシャ正教の信仰ではありません。場合によって、その信念の一つが完全には正当でなくてもTOCが適用できるのです。
たとえば、シンプルで調和のとれた状況ではなさそうだと知ったとして、それでも私はそこに内在するシンプルさを探す努力をすべきであり、必ずしもそれが見つかるまで待たずに、自分が考え得る最大の改善を達成するために全力を尽くすべきなのです。同じことは、その解消策が分からず対立に陥った場合にも言えます。私の解決法に限界があると分かっても、その時点でそれが最善の策なのです。
「人はそもそも善良である」という信念は翻訳が必要です。なぜなら、私は一般大衆の信念として受け入れることができないからです。しかし、最初の指針としては非常に役に立ちます。ここで肝心なのは、人はそもそも善良だと思えば、我々は他人の考え方や利害を大まかに把握でき、彼らの行動を理解できるということです。確かに、自分が何を嫌いか知っているなら、この最初の仮定が人の理解の指針になります。そうすれば、私たちは特定の人物が善良かどうか、より正しく判断できます。
「それはTOCではない」という発言は、どんな考え方であれその正当性を判断するには的外れであって、TOCコミュニティ内ではそれを使うべきではありません。私は、TOCの方法論やガイドラインから生まれた考え方かどうかに拘りません。今のTOCの方法論(ツール)は素晴らしいひらめきの担保にはならないことを知っておいてください! TOCの指針が私たちをそこにプッシュするかもしれませんが、我々はそれを見逃す可能性もあるのです。要は、ゴールドラット博士が言ったように、「決して知っているとは言わない!(決して分かった気になるな)」ということなのです。
著者:エリ・シュラーゲンハイム
飽くなき挑戦心こそが私の人生をより興味深いものにしてくれます。私は組織が不確実性を無視しているのを見ると心配でたまりませんし、またそのようなリーダーに盲目的に従っている人々を理解することができません。
この記事の原文: The Boundaries of TOC or What is “Not TOC”?